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世界で愛される和製ポップスの生みの親・宮川泰~サブスクで魅力を再発見Vol.5~

3月18日は、『宇宙戦艦ヤマト』を始めとするテレビ音楽や『若いってすばらしい』、『愛のフィナーレ』など数々の名曲を生み出した、作・編曲家 宮川泰の誕生日である。

漢学者であった祖父によって名付けられた”泰”という名前は、”やすし”と読み間違えられることもあるが、”ひろし”が正しい読みである。日本の音楽史において重要な人物であるだけに、ご存じなかった方は、これを機に是非とも覚えていただきたい。
今回のコラムでは、宮川泰の作曲家に至るまでの経緯、彼のキャリアの中でも特別な存在だったであろうザ・ピーナッツにスポットを当てていきたい。

1931年、宮川泰は、尺八が趣味の父と琴が趣味であった母という音楽好きの両親のもとに生まれる。幼い頃から母が歌う子守唄や自宅で聴いているレコードは、『ローレライ』や『スワニー河』といった女学生愛唱歌とも呼ばれた洋楽が多かったという。こういった音楽を毎日聴きながら育った結果、物心がつく頃にはハーモニーが好きになり、大人になってからもメロディーを聴くと自然と頭の中でハーモニーを付けるようになるほど、”ハモる”ことを意識していたそうだ。幼き頃からの習慣、そこから身に付けた意識が、その後の人生に与えた影響は多大なものであっただろう。

父親の仕事の都合で引っ越しが多い家族であったが、行く先々で音楽家になる上で欠かすことのできない数々の経験を積んでいく。
札幌の親戚の家に住んでいた小学生時代、その家にあった足踏みオルガンに触れたのが鍵盤楽器との最初の出会いとなり、中学生になるとアコーディオン弾きの先輩に憧れてアコーディオンを弾き始め、譜面は読めないものの耳で覚えた音をアコーディオンで再現することで次々と曲を習得。大分県の学校に転校すると、授業が終わってから通学の汽車が来るまでの長い待ち時間で学校の講堂にあるオルガンを弾き、大阪の高校に転校すると、講堂にあるピアノで音大出身の校長夫人に手解きを受けながら腕を磨いた。大学に通い始めると、夜はアルバイトで大阪のクラブやキャバレー、ダンスホールにてピアノでバンド演奏に参加し、そのギャラで譜面を買う様になってからは、譜面を読み込んでは練習をし、客前で披露をするといったサイクルを繰り返すことで知識と技術を吸収していった。目まぐるしく変化する環境に順応するだけでも苦労が多かっただろうが、音楽にのめり込み、着実に鍵盤奏者としての腕を磨き上げたことから、彼の音楽に対する好奇心と情熱が伺える。

それから約5年もの間、「小坂務とシックスサンズ」や「宮川泰とダンディラインズ」といったバンドで大阪のクラブなどで演奏する日々が続いていたが、大阪へ演奏旅行に来ていたヴィブラフォン奏者・平岡精二を訪ねたことから、「平岡精二カルテット」に参加し、上京することとなる。その後、全国レベルの人気を誇るジャズバンド「渡辺晋とシックス・ジョーズ」に引き抜かれ、ピアニスト兼アレンジャーとして加入した。

シックス・ジョーズの一員として全国をツアーで回る中、シックス・ジョーズのドラマーであったジミー竹内が、とある名古屋のクラブで歌の上手い双子の女性ユニットを見つけたと言い、翌日に渡邊晋と宮川泰はその双子を見に行った。それが伊藤日出代と伊藤月子による「伊藤シスターズ」であり、後に伊藤エミ、伊藤ユミと改名し「ザ・ピーナッツ」となる二人だ。音程の取れたパンチのある歌声、双子ならではの一糸乱れぬ二人によるユニゾンは、聴く者に衝撃を与え、二人のステージを見た翌日に改めて会って話をした結果、渡邊晋の渡辺プロダクションに新人歌手として入る事となる。その教育係を委任されたのが宮川泰であり、彼女らの歌唱レッスンを受け持った。

1958年に上京し、宮川泰によるレッスンに励んだザ・ピーナッツの二人は、1959年に有楽町の日本劇場にて開催された「第2回 日劇コーラスパレード」にてデビューを飾る。同年に『可愛い花』でレコードデビューし、以降も『情熱の花』『悲しき16歳』といった外国曲のカバーで次々とヒットを生み出す。これらの編曲を育ての親である宮川泰が手掛け、スターの仲間入りを果たした二人と同様に、彼自身もアレンジャーとしての頭角を現していく。


そんな宮川泰の作曲家としての転機となったのが、ザ・ピーナッツが出演するニッポン放送「ザ・ピーナッツ」という番組の”今月の歌”というコーナーだ。このコーナーのために書き下ろされた歌からレコード化され、ヒットとなった「ふりむかないで」は作曲家・宮川泰を印象付けるものとなる。その当時流行していた『ダイアナ』や『上を向いて歩こう』の要素を独自の解釈で取り入れ、外国曲の様なリズムやインパクトあるメロディーラインによって日本の新たなポップス像を作り出した。ザ・ピーナッツの特徴的な力強いヴォーカルや彼が得意とするハーモニーが存分に堪能できる1曲だ。


デビューから数々のヒットを生んでいたザ・ピーナッツだが、その人気を決定づけた楽曲も宮川泰による作曲作品であった。それがデビューから4年目にリリースされた『恋のバカンス』だ。渡邊晋の助言によってジャズの4ビートやマイナーの歌い出しからサビでメジャーへと展開する構成を取り入れ、スウィング感溢れる画期的な1曲となる。そんな楽曲は時を超えても色褪せない魅力を持ち、現在に至るまで数多くのアーティストにカバーもされ、日本のスタンダードナンバーの1つとなった。そして、その人気は日本に留まることなく、ロシアでもラジオ放送をきっかけに人気を博し、ロシア人歌手にもカバーされたことからロシアでの知名度も高い楽曲となったという。現地での人気ぶりは、ロシアでもコンサートをしていた寺内タケシから伝え聞いて、彼もその大ヒットぶりを知ったという。近年では、ミラ・ジョヴォヴィッチの娘であるエヴァー・アンダーソンが弾き語りをした模様を自身のSNSに投稿したことも話題となり、年齢や国籍を問わずに愛される楽曲であることを証明することとなった。

彼女らのレッスンを受け持ったところから始まり、アレンジャーとしてザ・ピーナッツの魅力を最大限に活かし、彼女らのイメージを決定づけた宮川泰であるが、彼の作曲家としての顔を世の中に知らしめたのは、ザ・ピーナッツの一連の作品によるものであったと言える。ここに挙げた楽曲の他にも競作盤となった『ウナ・セラ・ディ東京』や『銀色の道』など宮川泰が作曲した名曲の数々を歌い、ピーナッツのラストシングルとなった『浮気なあいつ』も彼によるものであった。今回紹介できた楽曲はほんの一部でしかないため、ザ・ピーナッツが歌った宮川泰作曲作品をまとめたプレイリスト『ザ・ピーナッツmeets宮川メロディー』で、両者の魅力にどっぷりと浸るとともに、世界に誇るユニークな楽曲群を楽しんでいいただきたい。


プレイリスト『ザ・ピーナッツmeets宮川メロディー』
URLhttps://lnk.to/Peanuts_HMiyagawa

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