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麻倉未稀スペシャル・ロング・インタビュー<Vol.3>〜大ヒット曲「ホワット・ア・フィーリング」「ヒーロー」、ドラマ主題歌の決定秘話〜

1981年にデビューし、40年以上のキャリアを持つシンガー、麻倉未稀。彼女がこれまでに残したおよそ200曲の楽曲が、ついに配信解禁となる。「ホワット・ア・フィーリング~フラッシュダンス」に代表される洋楽カヴァーだけでなく、筒美京平の書き下ろし楽曲や昨今ではシティポップの文脈で再評価されるリゾートポップまでバラエティに富んだレパートリーにあらためて驚かされるだろう。では、麻倉未稀はどのような音楽変遷を経て、数々のヒット・ナンバーを生み出すに至ったのか、そして現在までどのように音楽と向き合ってきたのか、音楽と旅のライター栗本斉を招き、生い立ちからじっくりと語ってもらったインタビューを4回に渡ってお届けする。

〜大ヒット曲「ホワット・ア・フィーリング」「ヒーロー」、ドラマ主題歌の決定秘話〜

—「ヒーロー」は「ホワット・ア・フィーリング」の1年後の1984年11月です。

麻倉:多分「ヒーロー」も出版社の方から「この曲やってみない?」って言われたんだと思います。この時はもう売野雅勇さんの詞がちゃんとセットになっていたので、「あ、いいですね」って歌って、レコーディングを終えて。それを出版社の方が「あ、じゃあちょっとこれもらっていくね」って言ってヴォーカルのダビングを終えた翌日に大映ドラマさんに挨拶に行ったときに、「『スクールウォーズ』ってドラマをやるんだけれど、いい曲ない?」って言われて「あ、そういえば麻倉が昨日こういう曲を録りました」って言って聞かせたら、「ドンピシャだ」って言われて使っていただくことになったそうです。翌日スタジオで「タイアップが決まったから」って言われてびっくりしました。どうしても一か所直したいところがあったから、サビのところだけ歌い直しさせてもらった記憶があります。

—なんだか、とんとん拍子で決まっていったんですね。

麻倉:そうですね。だから決まる時ってこういう風にして決まっていくんだなって。その波を自分で掴めるか、外しちゃうかっていうのはあるんでしょうけれど。ただそれって、ずっと続くとは思っていなかったし、いつかは自分で何かこう切り替えなきゃいけない時期が来るだろうっていうのがあったんですけれど、スタッフはそこまでは考えていなかったみたい。

—この勢いだとそう思いますよね。

麻倉:ただ、ある時「来年ないかも」って言った記憶があって、みんな「えー!」みたいな感じになって。その時は、来年に自分が歌っているシーンが見えなかったんですよね。ただ、その時にミュージカルのお話をいただいたりしたので、「ちょっとやってみようかな」と。新しいことに挑戦していく気持ちがあったからかもしれない。

—新しく何かを始めることに対して、否定的ではないというか、積極的に行くタイプなんですか。

麻倉:そうですね。一瞬は考えるんですよ。「果たして私これやって平気なのかな」とか。曲に対しても、「えっ?これ歌うの?」っていう時もあるんですね。でも話を持ってこられる方って、私に対して「こういうイメージが合うかもしれない」って考えていただいているんだったら、「じゃあちょっとやってみようかな」って。そういう時は、意外と面白い曲だったりするので、あまり拒否はしないようにしています。

—じゃあわりと、意外性を楽しんでいる。

麻倉:そう、もう受けたら楽しむっていう。

—きっと、その繰り返しなんですね。

麻倉:そうだと思います。

—1985年5月リリースの次のアルバム『Dancin’M』からは、『HIP CITY』とはまたイメージが変わりますよね。サウンド的にもデジタルっぽくなっているし、何より洋楽カヴァーがたくさん収録されています。やっぱりこの路線で行こうということだったんですか。

麻倉:カヴァーに関しては、レコード会社としての思惑もあったんですが、私も歌いたい曲がありました。だから、このあたりはマッチングしたかなっていう感覚です。すごく楽しかった記憶がありますね。

—選曲はご自身で「これがいい!」っておっしゃったんですか。

麻倉:私が選ぶ曲もあるし、制作スタッフが「これがいいんじゃない」って持ってきたものもあって、その中でバランスを考えて選んでいます。あと、権利関係とか大人の事情によっても変わってきますよね。外国曲を日本語訳で歌うのは、ちょっと大変だったんじゃないかなと思います。何度か許諾が下りない曲もあったりしましたから。

英語のまま歌うなら大丈夫っていうのもあるんです。多分、訳詞がダメなものは英語で歌った記憶があります。

—あと、『ステイン・アライブ』の「ファー・フロム・オーバー」とか、映画主題歌をカヴァーするというのも麻倉さんのブランドになりました。

麻倉:デビュー当時のイメージとはどんどん変わっていったのかもしれないですけれど、私は「それはありなんじゃないかな」ってずっと思っていました。別にひとつにこだわる必要ないだろうなって。私は性格的にそういうところがあるので、なんか変化していってもいいかなって。

—その次のアルバムは1984年9月リリースの『ROMANCE』です。
筒美京平さんが平山みきさんに書いた「あなたの来る店」を、「ぬれたコースター」というタイトルでカヴァーしていますね。基本的にサウンドは『Dancin’M』の路線ではあるんですが、ドメスティックな感じがします。そして、このアルバムの後に「ヒーロー」が発表されて、これがまた大ヒットして、みんなが知っている存在になりました。


麻倉:元々のコンセプトでは、あまりテレビに出ないっていうことになっていたのですが、「生放送の歌番組や重要な番組は出ましょう」みたいになりました。私はいろんな番組に出たかったんですけれど。あの頃ってアイドルはテレビに全面的に出るけれども、私みたいなタイプはあまり出ないという風潮があって。だからいきなり生放送と言われてもドキドキするし、慣れるのには本当に大変でした。でも、「ヒーロー」のおかげでいろんな番組に出させていただけたっていうこともありますし、多分ドラマに出たのもそのあたり。急にドラマっていわれても「セリフ覚えられません」っていった記憶があります(笑)。

—1983年10月からTBS系で放映されたドラマ『さよならを教えて』ですね。その年の11月にリリースした「黄昏ダンシング」が挿入歌に使われていて、『Dancin‘M』に収録されています。

麻倉:「ドラマに出ませんか」って言われて、「セリフがない役でお願いします」って言いました(笑)。スタッフの方が「えっ?」って言われて。「歌は得意なんですが、セリフだけは」って言ったら、「そうやって断る人初めてです」って。でも、ドラマの中ではライヴハウスで歌うシーンがあって、古谷一行さんか古手川祐子さんだったと思うんですが、カウンターで語り合っているところで、後ろで私が歌っているというような出演でした。これが何回かあって、最終話の時には「あ、行きまーす」という一言だけセリフがありました(笑)。

—セリフが一言とはいえ(笑)、ドラマに出演し、「ヒーロー」がまたドカンと売れて、その後の1985年5月発売のアルバム『LOVE AGAIN』は、すごくロック色が強くて、パワフルなイメージになりました。

麻倉:やっぱり、どうしても「ヒーロー」のイメージが強くなってしまったからでしょうね。

—当初の「ミスティ・トワイライト」はどこいっちゃったんでしょうね(笑)。

麻倉:「いつ歌うの?」って感じですよね(笑)。でも、今は「ヒーロー」みたいな曲を歌っておくのもすごくありかなって思っていて。「ヒーロー」のおかげっていうのもあって、逆にいろんな曲を歌うことができるっていうのは、一番いいんじゃないかなって思ったんです。「私はシンガーソングライターじゃないし、歌手としていろんな歌を歌います」って。そして「やる時はやるぞ、ロック色をガンガンに」みたいな。

—全体的にものすごく洋楽っぽいですし、ちゃんと路線を考えて作られていたんだなというのはすごく感じます。

麻倉:やっぱり、洋楽っぽい曲の方が私にしっくりくるっていうのがあったので、そういう部分ではかなり慎重に曲を選んでいたかなって思います。

—この洋楽志向の流れで、次の1985年11月リリースのアルバム『FOREIGNER』が、外国人作家を起用したアルバムですね。洋楽志向だけれど、レコーディングは日本人のミュージシャンという。

麻倉:ボン・ジョヴィのカヴァーもやりましたね。

—このボン・ジョヴィの「夜明けのランナウェイ」をカヴァーした「RUNAWAY」はすごく印象的でした。これもタイアップになっていたし、「ヒーロー」の次はこう来たかって思われていたんじゃないでしょうか。ロック路線を突っ走っているというか。

麻倉:本当に、日音の方からも「この路線で行こう!」って言われて、歌う方は結構ハードなので、「えっ」とか思っている反面、「楽しかったな」っていう感覚はありました。レコーディングしてもすごく悩むんですけれど、「はっちゃけて歌っちゃって!」って言われたら「わかりました!」みたいな感じで。とにかくすごく楽しくレコーディングさせてもらえていたなっていう印象があります。ツアーに出て、また戻ってきてへとへとになっているんですけれど、ツアーとは違う歌を歌えるっていうこともあって、レコーディングは切り替えにもなっていたのかなっていうのはあります。

—半年にアルバム1枚というペースを続けていたのが信じられません。しかもこのクオリティですし。

麻倉:この後、1か月後には洋楽のカヴァー・アルバム『DREAM DREAM』が出るんですけれど、その前後でLAに取材に行っているんですよ。「THE POWER OF LOVE」のオリジナルのヒューイ・ルイスに会いに。

—すごい!ヒューイ・ルイスに取材したってことですか。

麻倉:多分カヴァーしたことがきっかけで、「取材に行こう」っていう話になって。「ホワット・ア・フィーリング」を作ったジョルジオ・モロダーにも会いに行ったんです。で、ヒューイ・ルイスに会えるかもって言われて、「お土産を持っていくには何がいい?」って聞いたら、ヒューイはお子さんをすごく大切にしているということだったので、おもちゃを買って持っていったんです。LAのプールがあるホテルのラウンジで1時間ぐらいしゃべってくれたんですが、その間ずっとヒューイがおもちゃで遊んでいたんですよ。「子どもにあげるのはもったいない」と言って(笑)。

—それは貴重な体験ですね(笑)。

麻倉:『FOREIGNER』のツアーの時にTシャツを作ったんですが、そこにサインをもらって、今も持っているんですよ。めちゃくちゃいい人でした。

—この当時、洋楽カヴァーのミニ・アルバムが結構出ていて、『DREAM DREAM』はそれをまとめたアルバムなんですよね。

麻倉:そうですね。洋楽カヴァーはもうひとつの柱みたいになっていたので、いろんな曲を歌わせていただけました。

Vol.4に続く


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麻倉未稀プロフィール

1981年、CMソング「ミスティ・トワイライト」でデビュー。伝説のTVドラマ「スクール・ウォーズ」「スチュワーデス物語」 の主題歌「HERO」「What a feeling~FLASH DANCE」はいまだに強烈な印象を残す。
ジャンルを超えたその類まれな歌唱力は折り紙つきで、実力派歌手が苦手とする、カラオケマシーンによる採点で勝負を決める「カラオケ★バトル芸能界NO1決定戦」(TV東京)で見事優勝し、カラオケマシーンさえも太鼓判を押す歌唱力!と喝采を浴びる。現在は、歌の活動のみならず、ミュージカル等の舞台や、旅番組のレポーターとしても活躍。2017年にTBSテレビ「名医のTHE太鼓判!」にて乳がんが発覚。全摘手術を受けるも奇跡的な回復にて、術後3週間でステージに復帰。その後も精力的に音楽活動を続ける。更に2018年には地元の藤沢にて「ピンクリボンふじさわ」を立ち上げる。その他「ピンクリボンウォーク」、「ピンクリボンシンポジウム」など乳がん検診の啓発運動にも積極的に参加し続けている。

栗本斉プロフィール

音楽と旅のライター、選曲家。1970年生まれ、大阪出身。レコード会社勤務時代より音楽ライターとして執筆活動を開始。退社後は2年間中南米を放浪し、帰国後はフリーランスで雑誌やウェブでの執筆、ラジオや機内放送の構成選曲などを行う。開業直後のビルボードライブで約5年間ブッキングマネージャーを務めた後、再びフリーランスで活動。著書に『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』(毎日コミュニケーションズ)、『アルゼンチン音楽手帖』(DU BOOKS)、共著に『喫茶ロック』(ソニー・マガジンズ)、『Light Mellow 和モノ Special』(ラトルズ)などがある。2022年2月に上梓した『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』(星海社新書)が話題を呼び、各種メディアにも出演している。

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